satoaki’s 雑感

日々感じたこと

<逆転 愛と青春の旅立ち>

*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。


本当に驚きました。鳥山明さんの訃報です。ネットニュースで見て、僕は思わず妻に声をあげてしまいました。多くの人がそれぞれ想い出を持っているでしょうが、僕の場合はやはり「ドラゴンボール」です。「Dr.スランプ」をあげる人もいるでしょうが、僕は「アラレちゃん」のようなタッチの漫画は苦手で読んだことはありません。「ドラゴンボール」も最初から読んでいたわけではなく、きっかけは「天下一武道会」でした。やっぱり、戦う場面って燃えるものがありますよねぇ。

当時、僕はラーメン店を営んでいたのですが、定休日を水曜日にしており、その日に放映されていたのが「ドラゴンボール」でした。子供たち(当時5~6歳)と時間を過ごせるのはその曜日しかなかったのですが、その貴重な時間に子供たちと一緒に「ドラゴンボール」を見ていたことは楽しい思い出です。

ドラゴンボール」に関してあと一つ記憶に残っているのは「少年ジャンプ」の発売日の思い出です。「少年ジャンプ」は本来月曜日が発売日なのですが、「ドラゴンボール」の続きを読みたいがばかりに早めに販売しているお店を探すのが、ある意味流行りになっていました。

噂で「どこどこのお店に行くと土曜日に売っている」などと聞きますと、多くの少年たちはそのお店にかけつけていたように記憶しています。そのような状況の中で、ある日隣でパン屋さんを営んでいたご主人が声をかけてくれました。

僕はそのお店で毎日パンやお菓子などなにかしら買っていました。ですので、お店用の雑誌も買っていたのですが、ある月曜日、少年ジャンプを買ったときに、「実は、土曜日にもう届いているんですよ。よかったら土曜日にどうぞ」と教えてくれました。もちろん僕はお願いすることにしたのですが、ご主人はジャンプが配達されるとすぐに、わざわざお店まで来て僕に知らせてくれるようになりました。ですので、僕のお店では少年ジャンプが本来よりも早く読めましたので、幾らかは売上げに貢献していたように思います。

毎週このコラムを読んでくださっている方はご存じと思いますが、僕はここ数か月、漫画家さんについて書くことが多くなっていました。たまたま漫画家を目指している若い方々の不利な業界システムについて書いたことがあったのですが、その後原作がテレビ化された漫画家の方の死去などがあり、さらに続けて書くことになりました。

そうしたことがあっての鳥山明さんの訃報でしたので、なにかしら「縁」のようなものを感じないでもありません。僕はこれまで幾度か編集者という職業に対して批判的なコラムを書いていますが、鳥山さんの編集者さんに関しても同じような思いを持っています。各局で鳥山さんを悼む番組を放映していましたが、本人が出演していたのは「徹子の部屋」だけだったように思います。もしかしたなら、ほかにも出演してるのかもしれませんが、基本的には鳥山さん自身はメディアに出演するのをあまり好まなかったように想像します。

そうしたことが関係しているのかわかりませんが、僕がいろいろなメディアで「ドラゴンボール」のヒットについて語っているのを見るのは鳥山さん本人ではなく、いつも編集者の方でした。まるで「ヒットをさせたのは自分だ!」とでも言いたげな物言いにはとても違和感を持っていました。

編集者という職業を最初に認識したのは、矢沢永吉さんの自伝「成り上がり」について書いていた本を読んだときです。細かな点は忘れてしまいましたが、「成り上がり」を編集した方が、その本が生まれる過程をつづっている内容で、その中に今では業界で大御所と言われるほどになっている糸井重里さんを「ライターとして抜擢した」と書いてありました。

当時糸井さんは駆け出しのコピーライターだったらしく、その若手を抜擢したことに満足しているようでした。その本を読んで僕は思ったのです。駆け出しだったとはいえ、糸井さんほどのライターの採用可否を決定する権限を持っている「編集者って凄いな!」、と。それからです。編集者という職業について意識するようになったのは。

前にも書きましたが、出版業界には「文芸」とか「ビジネス書」とかいろいろなカテゴリーがあります。そうした中で「漫画」の編集者はほかのカテゴリーとは違うような気がしています。そのように思う一番の理由は、漫画が「原作」と「作画」という2つの要素から成り立っているからです。もちろん両方をこなしている漫画家の方もいますが、というよりも昔は漫画家が一人で書いていると思っていました。

原作者を意識するようになったのは、「ビッグコミックオリジナル」に掲載されていた「人間交差点 -HUMAN SCRAMBLE」という漫画を読んだときからです。これは弘兼憲史さんの代表作のようにいわれることがありますが、僕からしますと原作の矢島正雄さんの代表作といったほうが適格なように思っています。弘兼さんには「課長 島耕作」がありますが、ストーリーの深さでいうなら「人間交差点 -HUMAN SCRAMBLE」のほうに軍配が上がります。

それはともかく、「原作」と「作画」の両方を一人でこなしている漫画家さんは大変です。以前、「ナニワ金融道」を描いていた青木雄二さんの自伝を読みましたが、青木さんは原作と作画の両方をこなしている漫画家でした。その青木さんの一週間のスケジュールの過酷さは並の人では絶対にこなせないものでした。

青木さんは自らの体験を漫画に描いていましたが、それでも資料を作ったり調べたりする必要があったようです。ときには取材をすることもあるのですが、そうしたことを全部ひっくるめての1週間の締め切りです。寝る間もないのは当然です。

おそらく漫画家として成功している方々は皆さんそのような生活を送っているのでしょうが、そこまでにたどり着くのはが大変です。漫画家を目指す若い方々の環境をどれほど改善しようとも成功できるのはほんの一握りです。そこにたどり着くまでは出版社・編集者の意向に沿った仕事をするしかありません。鳥山さんでさえ、「ドラゴンボール」は自分が考えていた当初の構想から編集者の意向で読者が求めていそうな方向へ転換したそうです。

ですが、成功してしまえば漫画家と編集者・出版社の立場は逆転します。週刊誌という発表の場を与えてもらうという弱い立場から、編集者・出版社に利益を与えるという強い立場に変わります。僕が若かりし頃、リチャード・ギア主演の「愛と青春の旅立ち」という映画がありました。この作品は「海軍士官学校の訓練生となった青年が成長していく」過程を描いたものですが、訓練があまりに厳しく、中には苦しすぎて自ら命を絶つ者が出るほどのものでした。ですので、教官の訓練生に接する態度はまるで虫けらに対するようなもので、まさに鬼のような態度でした。しかし、訓練生が試験に合格し卒業したときの場面が忘れられません。

それまで訓練生を人とも思わない態度で接し、まるで虫けらのように扱っていた教官が、卒業した瞬間に態度を一変させるのです。訓練生と教官の立場が一瞬にして逆転するのですが、訓練生から上官となったリチャード・ギアに対して、身体を律し最敬礼をする教官の姿には胸が熱くなるものを感じました。根性論を信条としてきた昭和時代のスポーツ少年からしますと感動的ですらありました。

だからといって、自分もそうした環境に身を置きたいかといいますと、そんなことはありません。そんな死ぬほど苦しい思いをするのやっぱり嫌です。人を人とも思わない教官・上司がいる組織なんてまっぴらごめんです。

だって、卒業できるとは限らないんですから。

じゃ、また。

 

<車は体を表す>

*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。


スポーツニュースではプロ野球のキャンプの模様が報じられていますが、キャンプがはじまる前に話題になったのがロッテの佐々木朗希投手の「選手会脱退」のニュースでした。このニュースがきっかけで知ったのですが、今年からドジャーズでプレーする元オリックスの山本由伸投手も脱退していたそうです。

僕は先月「勝ち組の論理」と題して漫画家業界について書きました。現在、「セクシー田中さん」問題で揺れている漫画業界ですが、その漫画業界は新人の方々が生きていくのにはかなり過酷な環境になっています。そうした環境を、成功した漫画家の先輩たちには、あとから続く後輩たちのために「新人漫画家の不利な環境を改善する義務・責任がある」とつづりました

僕は、こうした発想はプロ野球の世界にも通じると思っています。もちろんプロ野球の世界では弱肉強食が基本的な考えであることは承知しています。ですが、選手にとって不利・不公平な環境が未来永劫続くのであれば、間違いなくその業界は廃れます。子供たちが「将来就きたい職業」として選ばなくなるからです。

佐々木投手や山本投手が選手会を脱退した理由として「加入していても意味がない」と話しているようですが、選手会があったからこそ、現在の「日本人のメジャー移籍が珍しいことではなくなった」のです。実質的な日本人選手のメジャー移籍は当時近鉄に在籍していた野茂英雄投手ですが、野茂投手がメジャーに行くときは経営側はもちろんですが、マスコミからも轟轟たる非難・批判の嵐でした。それらをはねのけての野茂投手のメジャーでの大成功ですので、僕の「野球選手で最も尊敬する選手」は野茂さんです。

実は、野茂騒動が起きた当時も選手会は存在していたのですが、形だけのものでした。ですので、選手側が経営側に対して待遇改善などを訴えることなどはご法度でした。しかし、2004年にプロ野球再編問題が起きたことがきっかけで、当時の選手会会長・古田敦也さんが経営側とストライキ決行ギリギリまで戦い、ようやっと選手側が経営側に意見をする道を作りました。このときの古田さんの奮闘が、それ以降の選手たちの待遇改善につながったのは間違いありません。

佐々木投手や山本投手が今の状況・環境にいられるのは、こうしたこれまでの選手会の活動があったからです。古田さんが権利を勝ち取る前までは、選手は経営側の言いなりになるしかありませんでした。今回、佐々木投手は契約更改を越年しましたが、以前では考えられないことです。現在、選手たちが球団に意見を言えるのは、これまでの先輩方の努力があったからこそです。そうしたことを考慮に入れずに選手会を退会するのは、先輩方の努力をないがしろにするものです。

言うまでもありませんが、佐々木投手や山本投手は球界の中では成功者です。成功者には成功した人だけに生じる義務があると思っています。僕は大分前ですが「ノブレスオブリージュ」というタイトルでコラムを書きました。「地位の高い人には、それにふさわしい責務がある」という意味ですが、成功者という高い地位にいる人が「ノブレスオブリージュ」を実践してこそ社会はよりよいものになります。大谷選手が日本の子供たちにグローブを贈ったのもその一つではないでしょうか。

昨年のことですが、ツイッターに盗難車発見依頼の投稿がありました。盗まれた人が自分の車の写真を投稿して、「見かけたら教えて」というものでしたが、ある方がその投稿に反応して「無事に見つかった」という顛末でした。盗難車を発見した方は犬の散歩を日課にしていたそうで、散歩の途中に発見したようです。元々「車が好き」な方で、毎日散歩をしながら駐車場などの車を見るのを楽しんでいたそうです。

僕は「心に残る言葉」というコーナーを作っているのですが、その盗難車を発見した方の言葉がとても印象に残っています。その方は次のような言葉を残していました。

「車を見て、人を見ると妙に納得する」 散歩マスターSさん

「名は体を表す」ならぬ「車は体を表す」ということですが、車を財力やステータスのために乗っているのではなく、「心の底から車が好き」という思いが伝わってくる言葉です。成功者が高級な車や高価な腕時計を身につけたがるのは、成功者であることを世間にアピールしたいからです。先ほどの言葉は、「車」という目に見えるモノから、その人の心の中に潜んでいる自己顕示欲をうまく掬い取っています。

数年前、池袋で80歳過ぎ高齢ドライバーがブレーキの踏み間違いで、交差点にいた母子を死傷させた事故がありました。このとき加害者は元高級官僚だったのですが、重大な事故であったにもかかわらず逮捕されなかったことから、「上級国民は逮捕されない」と話題になりました。「上級国民」という言葉にはその裏に「傲慢で尊大で不遜」な意味合いが含まれていますが、僕はこの元高級官僚はそうした人ではないように思っていました。

理由は、運転していた車が高級外車ではなかったからです。あれだけの華々しい経歴の持ち主であれば、十分高級外車に乗るだけの財力・資産は持っているはずです。それにもかかわらずecoをウリにしているプリウスに乗っていたのですから「傲慢で尊大で不遜」であるはずがありません。加害者は事故当初は「車の不具合」を訴えていましたが、最終的には罪を受け入れました。真実はわかりませんが、「遺族の気持ちを汲んだ」と僕は想像しています。

実は、池袋の事故からさかのぼること1年前に、渋谷でも似たような事故が起きていました。元東京地検特捜部長という役職の上級国民の方だったのですが、このときの加害者は外車でこそありませんでしたが、十分に自己顕示欲を満たせる高級車でした。ちなみに、この事故でも加害者は「車の不具合」を主張しており最高裁まで争いましたが、有罪が確定しています。

この2つの事故を見ていますと、上級国民にも二通りの人がいるように思います。自己顕示欲が強い人とそうでない人です。前者はどうかわかりませんが、後者は間違いなく自己顕示欲がない人です。もちろん「自己顕示欲」の有無で人間性が決まるわけではありませんが、「車を見て、人を見ると妙に納得する」の「納得する」には注意が必要です。

高級車は「自己顕示欲」のみをアピールしているわけではありません。普通の人の何倍も努力をして苦難を乗り越えてきた経験を連想させることもあります。反対に親の七光りで高級車に乗っていることもあるでしょうが、そのどちらを連想させ「納得させる」かはその人の人間性が決めます。

例えば、どれほど着飾ってきれいな人だとしても、その人が薄汚れていてなんの手入れもしていなそうな汚い車に乗っていては、心の中は「きれいではない」と想像します。反対に、高級車から降りてきた人がどれほど汚い恰好をしていても、その高級車にふさわしい振る舞いをして、雰囲気を醸し出していたなら誰もが「高級車」に納得するはずです。要は、「車」と乗っている人の「人間性」がふさわしいかどうかです。車と人間性がマッチしていないときは、当然ですが誰も「納得」などしません。

どれほどの高級外車に乗っていようが、人間性が伴っていなければ誰も「納得」しません。結局、大切なのは人間性です。高級車に乗っている人だからといって、「傲慢で尊大で不遜」で自己顕示欲が強いということでもないはずです。

だって、大谷選手がポルシェに乗っていても「自己顕示欲が強い」なんて思わないじゃないですか。

じゃ、また。

<ライバル視>

僕に原因があるのかもしれませんし、そうではなくただ単に相手の人が競争心が強いだけなのかもしれませんが、なぜか僕は競争相手として見られることが間々あります。最初にそうした思いになったのは、小学校5年生のときでした。

 

当時、運動会では徒競走という5~6人でいっせいに100m(50mだったかもしれません)を走る競技がありました。この徒競走をするにあたって学校はある工夫をしていました。一緒に走る人を同じくらいの足の速さの生徒にすることです。足の速さがあまりに違いますと徒競走がつまらない競技になるからです。親御さんにしても生徒にしてもその組み合わせは安心または納得できるものでした。あまりに差がありすぎますと足の遅い生徒が一人だけ取り残され、一人ぽつんとグランドを走ることにもなりかねません。そのような状況になってしまいますと、生徒本人もその親御さんも恥ずかしい思いをすることになります。とてもいいやり方だと思っていました。

 

そうなりますと生徒の足の速さを事前に把握しておく必要があります。ですので運動会の1~2週間前の体育の時間に担任が生徒のタイムを計っていました。計り方は生徒二人ずつが順番に走るのですが、そのゴールで担任がストップウォッチでそれぞれの速さを計測していました。

 

僕は足が遅いほうではありませんが、それほど早いほうでもありません。まぁ、中間といったところでしょうか。その僕がなんと担任のストップウォッチではクラスで一番早いタイムになっていました。担任がストップウォッチの押し方を間違えたのだと思います。担任が僕のタイムを読み上げたとき、周りの生徒は「おお!」と声を上げましたが、一番驚いたのはなにを隠そうこの僕です。

 

確かに一緒に走ったクラスメイトよりは速かったのですが、クラスで一番になるほどではないはずです。しかし、そのまま僕のタイムは変更されることなく、確定してしまいました。周りの生徒は「すごいね」と褒めてくれましたが、僕は心中穏やかではありませんでした。理由は、早い生徒が走る組に入れられるからです。絶対、「ビリだな」。

 

そんな気持ちで過ごしていたある日、たまたまクラスで一番足が速いといわれていたN君と並びながら歩く機会がありました。なにを話していたのかは覚えていませんが、突然N君は前方の電信柱を指さし、「あそこまで競争しようか」と言ってきました。「えっ、うん」僕たちは同時に走り出しました。もちろんN君のほうが速く到達しました。なにしろN君は走りの実力者ですから、当然です。

 

おそらくN君は、僕のタイムが自分よりも速かったことに納得できなかったのでしょう。それを確認したかったんだと思います。なんとなくわからないでもありません。しかし、N君はタイムのことを持ち出すでもなく、普通に他愛のない話をしながら歩いていました。

 

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ときは流れて僕が40代半ばの頃です。僕は43歳でラーメン店を廃業していましたので、その頃は昼は保険関係の仕事をしながら、夜は警備の仕事をしていました。そんな生活をしていたとき、高校時代のS君から電話がありました。僕は脱サラ組ですが、S君も同じでした。S君はかなり変わった経歴の持ち主で当時はキャバクラを経営していました。

 

S君は今でいうFランクの大学に進学したのですが、3年生が終わった時点で中退をし、印刷業に就職していました。おそらく「このまま大学を卒業しても意味がない」と思ったのでしょう。あと1年我慢すれば一応は「大卒」の資格を得ることができるのですから、周りからは反対されたそうです。それにもかかわらず中退してしまいました。

 

僕はタクシードライバーの経験もありますが、あるお客さんから「印刷業は儲かるよ」と聞いたことがありました。S君が印刷業を選んだのもおそらくそうしたことを知ったからです。同時に「体力的にはかなりキツイよ」とも聞いていましたが、その点S君は高校・大学と運動部に所属し、体力・肉体を鍛えていましたのでなんの問題もありません。S君にぴったりの仕事だと思っていました。

 

僕は30歳でラーメン店を開業していますが、ちょうど同じころにS君も印刷業で独立していました。僕の感覚では印刷業のほうが儲かっていたように思います。人間、それなりに儲かるようになりますと手を広げたくなるのが常です。S君は印刷業を営みながら水商売にも手を広げるようになっていました。キャバクラです。そして、とうとうS君は印刷業をたたみ水商売の世界に軸足を移していきました。

 

僕が昼間は保険業、夜は交通誘導の仕事をしていた頃、S君から突然電話がありました。僕がまだラーメン店を営んでいた頃、なぜか僕のお店を見に来たことがありますが、僕のお店を値踏みしている感じがしていました。そして、僕が廃業したことを知ったあと、僕に連絡をよこしたのです。

 

要件を簡単に言いますと、「ラーメン店をやろうと思っているんだけど、手伝ってくれないか」というものです。早速、開業を予定をしている物件を見に行ったのですが、あまり好立地とは言えず、本気で開業しようと考えているようには思えませんでした。そして、いろいろと話していて気付いたのですが、要は「自分の下で働かないか」ということでした。

 

S君の本心がわかりました。S君はラーメン店を開業するのが目的ではなく、僕を支配下に置きたかったです。それがわかりましたので、さりげなく断りを入れました。おそらく、自分の成功を見せつけたかったことと、会社勤めではなく自営業として生きている僕が気に入らなかったのだと思います。その証拠に、それからしばらくして、わざわざ僕の住んでいる駅までやってきて、「ちょっと話をしようよ」と連絡をしてきました。「わざわざ」と書いたのは、S君の活動拠点は僕の住所から電車で1時間以上かかるところだったからです。

 

「ちょっと話をしようよ」の中身は、いかに自分が手広く事業を展開しているかを話すことで、「いろいろな業種をやっている」と名刺を見せてくれました。僕が一番印象に残ったのは「人材派遣業をやっている」と話していることでした。当時、社長と名がつく人は「人材派遣業」を経営するのが流行りだったからです。しかし、「人材派遣業」について少しつっこんだ話をしますと、あまり答えられませんでした。僕にはうわべだけの人材派遣業のように感じられました。

 

最初はお寿司屋さんで話していたのですが、次に少し広めのスナックに入りました。「人材派遣業」についてあまり詳細な会話ができなかったことを挽回しようと思ったのでしょう。S君は僕たちの席についた女の子に説教をしだしました。接客のやり方について、偉そうに延々と話すのです。

 

それを聞いて、僕が切れました。「ふざけんな。なにを偉そうにしゃべってるんだよ! 帰る!」。僕は店を出たのですが、僕を追いかけてきたS君に、僕は怒りが収まらずS君の嫌なところをまくしたてました。そして、通りを走っていたタクシーを停め、S君を押し込み「もう帰れ!」と怒鳴りました。S君は僕の剣幕に言い返すこともなく、タクシーに乗り込み去っていきました。

 

ばーか。

 

それから数年後、S君から電話がありました。あの出来事依頼音沙汰がありませんでしたが、声の雰囲気がこれまでの感じとは違っていました。僕は訝しながら尋ねました。

 

「どうしたの?」
「うん。あのさ、キャバクラをやくざに乗っ取られちゃって…、大変なんだ。200万円くらい貸してくれないかな」
「無理だよ。俺のほうが借りたいくらい」
「そうか、わかった。じゃぁね」

 

たったこれだけのやり取りだったのですが、僕はそこにS君の心の優しさを感じました。S君は高校時代ツッパリだったので、喧嘩が大好きでした。そんなS君がある日、

 

「あのね。人間って幾つかの顔を持っていていいんだって。そうした顔を使い分けて生きていくのが人間らしいよ」

 

突然、そんな哲学的なことをのたまっていたS君が僕に「お金を貸してくれないかな」とお願いしてきたのです。自分のみじめな現状をわざわざ報告してきたのです。僕は、S君なりの謝罪だったのではないか、と思っています。

 

じゃ、また。

 

<立ち場>

僕は毎週金曜日を自分の仕事休みにしており、余程の用事がない限り妻とドライブを兼ねた遠出のショッピングに行っています。先週も行ったのですが、帰りの車の中で少しばかり気まずい雰囲気になりました。原因は、ジャニーズの記者会見です。

僕はいつも帰りの車の中で妻とおしゃべりをするのを楽しみにしており、最近起こった出来事とか、昔と言いますか、子供のころの思い出話などをして楽しい時間を過ごしています。ときには、少しばかり堅い話題、例えば政治や経済の話など、普段妻があまり関心を持たないであろう話についても考えを聞いたりしています。

パターナリズムという言葉があるのですが、これを簡単に言いますと「親が子供に対するような気持で接すること」です。もっとわかりやすく悪い意味合いで言い換えますと「上から目線で話す」ことです。しかし、妻とは40年以上も一緒に暮らしている間柄ですので、悪い意味を承知でパターナリズムで妻と話しています。やはり、政治とか経済については僕のほうが圧倒的に知識を持っているからです。

傲慢な自慢話はこれくらいにして話を続けますと、帰りの車の中ではたまに堅い話題を振ったりもしていますが、先日はジャニーズの会見について討論(?)をしました。僕がこの話題を持ち出したのは、数日前に行われた会見があまりにお粗末で、強い憤りを感じたからです。

憤りの原因は井ノ原副社長の発言とそれに対する一部の記者の拍手です。一部のSNSやネット上のメディアでも非難の声が上がっていますが、不公平な会見の進め方に強い抗議の声を上げる記者に対して、まるでパターナリズムで発せられるような井ノ原副社長の発言に強い憤りを持ちました。発言を要約しますと「落ち着いてください。全国の子供たちも見ていますので模範となるような大人の振る舞いをしてほしい」というものですが、これは加害者の側にいる人間が発する言葉ではありません。

また、記者の質問に対して「えっ、マジで?」とくだけた言葉遣いで返す場面もありました。これも加害者の立場に立つ人間が使っていい言葉では決してありません。井ノ原副社長は完全に勘違いをしているように見受けられます。どんな勘違いかと言いますと、自分を会見の当事者ではなくMCの立場にいる、と思っていることです。

刺激的な言葉を使うなら、井ノ原副社長は犯人側にいる立場の人間です。その立場にいる人間が糾弾するマスコミ人に対して「落ち着いてください」とか「子供の模範になるように振舞ってください」などと言えるはずがありません。

先日、塾の講師が小学生の生徒を盗撮した容疑で逮捕される事件がありました。仮に、塾を運営する社長が厳しい追及をするマスコミに対して「落ち着いてください。全国の子供が見ていますのでルールを守る大人の対応をお願いします」などと言ったなら、その会見は紛糾して非難と批判の嵐となるのは目に見えています。井ノ原副社長はそうした振る舞いをなんの疑問もなく、というよりも堂々と行っています。

井ノ原副社長の発言以上に僕が憤りを感じたのが、記者席から起こった拍手です。僕は耳を疑いました。いったいどこの世界に事件を起こした当事者の発言に拍手をするジャーナリストがいるでしょう。普通に考えて、拍手をした記者連はジャニーズ事務所もしくは井ノ原さん東山さんと個人的に親しいか、もしくは好意的な気持ちを持っている人たちであることは容易に想像がつきます。

拍手が起きた時点で、この会見は記者会見ではなくジャニーズ事務所の発表会に変わっています。1回目の記者会見のときのコラムでも書きましたように、拍手をしたマスコミ人はまさに株主総会の総会屋と同じです。会見が終わり会場を去る際の井ノ原副社長の振る舞いにも違和感を持ちました。井ノ原副社長は記者席に向かって「申し訳なさそうな」表情・態度を見せたのですが、それは加害者ではなく出演者の振る舞いでした。そうした振る舞いが、この会見を記者会見ではなく発表会に変じていたことを象徴していたように思います。キツイ表現ですが、最後まで会見をなめている印象を受けました。

井ノ原副社長に対して好意的な記者の方々は、おそらく取材対象と親しくなることで他社よりも有利な情報を得たり、取材をしてきた人たちです。芸能記者に限らず、記者という職業は総じてそうしたやり方が主流となっているようですが、一つ間違えますと裏目にでることがあります。

安倍政権時代、ある検事総長が任命されることに対して物議を醸した騒動がありました。政権にとって都合のいい人事を断行しようとして画策していたことが表面化したからですが、そのときにやはり注目を集めたのがその検事総長候補と「麻雀をしていた新聞記者の方々」です。麻雀を一緒に囲むほど親しい関係だったことに批判が集まりました。

マスコミの世界では取材対象の懐に入り込むことが取材の基本という考えがあるようですが、あまりに取材対象に近づきすぎてしまいますと、公平な取材ができなくなる恐れがあります。政治の世界には「番記者」と呼ばれる政治家を担当する記者がいますが、「番」とは「当番」の「番」ですので政治家と常に行動をともにすることになります。そうなりますと自然に親近感が増しますので、ときには一心同体のような感覚になることもあります。実際、昭和の時代は番記者から首相の相談相手になり、政権の内部に入り込み、「政治を動かしている」と豪語しているマスコミ人もいました。

しかし、今は昭和ではなく令和です。「和」は同じですが、はじめの一文字は変わっています。かつてのようなマスコミ人の常識が通用しない時代になっています。井ノ原副社長の発言に拍手をした方々は昭和の感覚が抜け切れていない人たちです。ジャニー喜多川氏の性加害を報じたのは外国のテレビ局ですが、外圧がなければ真相を解明できなかったことを恥じることが令和のマスコミ人に求められる第一歩です。

先週は日本維新の会に所属する鈴木宗男衆議院議員がロシアを訪問したことも問題視されました。鈴木氏も昭和の感覚が抜けきれていない感じがします。ご存じの方も多いでしょうが、鈴木氏は昭和の時代からロシアに精通していることで有名な議員でした。「有名」というよりも「ウリ」にしているという表現のほうがふさわしい感じがしますが、ロシアに親しいことで議員としての存在価値を高めていたように思います。

そうしたことが今回のロシア訪問の背景にあると想像しますが、今の時代に即していないのが誰が見てもあきらかです。穿った見方をするなら、自らの存在価値がなくらないようにするために訪問をした可能性もあります。その鈴木氏を常に応援しているアーティストに松山千春さんがいますが、松山さんはなにがあろうとも地元の鈴木氏を応援していました。

松山さんは昭和の時代に、やくざの友人を「それでも友人」とかばう発言をして物議を醸したことがありました。当時は「義理堅さ」が信頼性の証になっていましたが、今の時代では通用しなくなっています。同じことが山下達郎さんにも言えます。山下さんはジャニー喜多川さんの性加害が問題になったあとも、「ジャニー氏に対する恩義は忘れない」と発言して非難されました。

お二人と同様に、昭和時代に青春を過ごして僕ですので、お二人の気持ちもわからないではありませんが、やはり時代に合わせることは必要です。お二人はアーティストという立場ですので、幾らかは許容できる気持ちもありますが、日本テレビで夜のニュース番組のメインを務めている有働由美子さんが井ノ原氏を擁護するようなSNS発信をしたのは、いただけません。

有働さんは歴としたニュース番組の看板を背負っているキャスターですので、社会的見識は普通の人以上に求められます。その有働さんが井ノ原氏を思いやる発信をすることは、井ノ原氏を支持することと同じです。それはすなわち拍手をした記者の方々に同調することにもつながります。いくら親しい関係であっても正しいことと間違っていることをきちんとわけることはキャスターとしての使命です。有働さんが井ノ原氏をたしなめることを願っています。

じゃ、また。

 

<右手人差し指物語>

今年の4月にこのコラムで「右手人差し指」の肌荒れについて書きました。第一関節のちょうど曲げるところが皺に沿って裂けるというか切れてしまう話でしたが、そのときは「お水を飲む」ことで「一応改善した」と報告して終了していました。ですが、完全に治ったわけではなく、あくまで「改善」の範囲の治り方でした。

それでも最悪の状態のときに比べますと、治療というほどのものではありませんが、症状への対処に手間と費用がかからなくなったことはとても助かりました。なにしろ最悪の状態のときは、切れる箇所に絆創膏を貼り、さらにその上にテーピングを巻いたりしていましたので仕事に出かける前の準備にそれなりに時間とコストを要していたからです。

絆創膏は毎日取り換えなければいけません。場合によっては1日に2回取り換えることもありましたので、絆創膏代もバカになりません。もちろん一番安い絆創膏を探しましたが、僕が調べた中では「ダイソー」が最もお得でした。50枚で100円でしたが、ほかの100円ショップでは30枚で100円でしたので各段の違いです。テーピングの使う量も半端ではないのですが、テーピングは以前仕事をしていた職場で大量に無料で手に入れることができましたので費用の面で困ることはありませんでした。

それはさておき、ひび割れは改善していたのですが、6月頃より改善の治り具合が少しばかり後退してきたように感じていました。もしかしたなら「酷暑」が関係していたのかもしれませんが、暑くなりだしてから第一関節の肌荒れが少しばかり目立つように感じていました。体内に取り込んだ水分が汗として体外に流れたのが原因かもしれません。

そこで新たな対策を考える必要性に迫られたのですが、実はこれまでに幾度か使ってみようかと思いながら使っていなかった「塗り薬」があります。それを試すことにしました。なぜすぐに試さず躊躇していたかと言いますと、成分にステロイドが含まれていたからです。ご存じの方もいるでしょうが、肌荒れなどに有効な成分として有名ですが、ステロイドには副作用についていろいろな噂が流れています。

いろいろな噂がありますが、僕が気になっていたのは、皮膚炎を解消するどころか反対に「かぶれ」を発症させる副作用です。しかし、そうしたあまりよろしくない噂がありつつも、普通にドラッグストアでは売られています。ですので、不安な気持ちもありながらも「大丈夫だろう」とも思っていました。

「大丈夫だろう」と思った理由はあと一つあります。僕は「嗅覚障害」も患っており、耳鼻科に定期的に通院しています。そこで処方されているのが、実はステロイド点鼻薬なのです。先生曰く「使いすぎなければなんの心配もありません」でした。実際、その薬を使い始めて優に3~4年は経ちますが、副作用は全く起きていません。

そうした自分の体験がありながらも、それでも「ステロイド塗り薬」を使うことに踏み切れなかったのは、ほかに理由があります。実は、僕の心の中で一番引っかかっていたのは、それは価格です。ほかの塗り薬よりもかなり高いのです。もし、使ってみて効果がなかったり、万に一つ副作用が出たとき、その価格の高さゆえ、より一層強く後悔の念を感じるのではないか、と思っていました。

「高い」とはいえ、普通にドラッグストアでも売られている薬ですので数万円もするわけではありません。普通に稼いでいるそれなりの社会人ですとさほど気にもならないはずの2千円です。ステロイドが入っていない塗り薬ですと千円ちょっとですので、2倍近く高い価格です。購入して効果を感じられず、まったく使わなくなりますとそれがすべて無駄になるのです。貧乏性の僕はそうした事態になるのが嫌で購入するのを躊躇っていたのです。

しかし、とうとう購入しなければいけないときがきてしまいました。なんとか完治したくてたまらない気持ちになったのです。そこで僕は「フルコート」という薬をドラッグストアで購入しました。そうです。もったいぶっていましたが、薬品名を「フルコート」といいます。僕は自分が欲しいものは最近はほとんどamazonで購入しています。ですので、薬類もamazonで購入することが多いのですが、なぜドラッグストアで購入したか、といいますと、amazonでの価格がそれほど安くなっていなかったからです。

僕は「右手人差し指」の肌荒れについて書いた翌週に「痔瘻物語」を書きましたが、僕は年をとってから本当にいろいろな疾患にかかっています。そうした経験を積みますと、自然に「安く薬を購入する方法」を考えるようになりました。その一環として薬品類の購入方法については一家言あるおじさんになっています。

痔瘻物語でも同様の方法で薬を購入したのですが、薬にはテレビなどで大々的に宣伝をしている有名な薬があります。そして、それらの薬はほとんどにおいて効果が証明されているのが普通です。例えば、痔になったときには「ボラギノール」が有名です。僕でなくても「♪痔に~はボラギノール♪」とメロディーつきで口ずさめる人は多いのではないでしょうか。それほど宣伝効果は高いものがあります。

これほど有名なボラギノールですが、この薬の一番の長所はやはり効能において実績があることです。しかし、あれだけ広告を出しているのですからその分価格を高くしていることは容易に想像がつきます。そうなりますと、庶民の僕としては代替品を考えます。しかし、効能はボラギノールと同じでなければ意味がありません。そこで注目するようになったのが、成分です。

ボラギノールが効能を発揮できるのは製品名のおかげではありません。成分が適切に効果を発揮しているからです。大切なのは成分です。ということは同じ成分であるなら、別にボラギノールである必要はないのです。僕はボラギノールと同じ成分でもっと価格の安い薬品を探しました。調べるのが面倒ではありますが、ちゃんと同成分で名前の知られていない薬品というのはあるんですねぇ。僕はその薬を購入し、しっかりと痔瘻物語を完了することに成功しています。

さて、「人差し指物語」に話を戻しますと、僕は「人差し指物語」での「痔瘻物語」のボラギノールにあたる薬を「フルコート」と定めました。そして、同じ成分の薬を探したのですが、悲しいことに全く同じ成分の薬はありませんでした。「同じような成分」のものを購入したことはあったのですが、やはり「同じような」では効果はありませんでした。

そこで、とうとう意を決して「フルコート」を購入したわけです。持って回った書き方が多い僕ですが、結論を言ってしまいましょう。「正解です。大正解でした!」。やっぱり正規品は違うんですよねぇ。「同じような」成分ではなく、完全一致な成分は効果が覿面(てきめん)でした。1日に3回塗っていたのですが、少しずつカサカサ感がなくっていくのを実感できたのです。

少しずつ塗る回数を減らし現在は全く使用しなくても済んでいます。ただし、水を使いますと、少しばかり赤みが出ることがありますので、そのときはすぐに塗っています。これから寒い季節を迎えますが気温が下がりますと、皮膚が切れることが多くなりますので「フルコート」を知って本当に満足しています。

あまりにもうれしかったので、妻に話して一緒に感動を分かち合おうと思ったのですが、いくら僕の喜びを伝えても、妻にはその感動が伝わらないようで、「ふ~ん」とか「へぇー」という軽い返答しかもらえませんでした。悲しい…。

「所詮は他人」とはいえ、曲がりなりにも夫婦として長い間一緒に生活してきたのですから、「僕の喜びに共感してくれてもいいじゃんか!」と心の中で叫んだぼくでした。

最後は、うしろ指を指して終わります。

じゃ、また。