satoaki’s 雑感

日々感じたこと

<組織の論理>

僕は毎年、お盆の季節を過ぎますと一気に「夏が終わる」感覚がありました。具体的には8月15日を過ぎますと極端に暑さを感じなくなるのですが、大げさでもなんでもなく本当に肌に触れる風が涼しく感じられるようになります。ですので、クーラーをつけなくなるのはもちろんのこと、ほかの人がTシャツ短パンでいようとも、薄い生地ではありますが、長袖を着るようになります。そうしないと風邪をひいてしまう気分になるからです。

 

そんな僕が、今年はまだクーラーをつける日がありますし、Tシャツで日中を過ごすこともあります。こうした事態は自分史上初めての出来事で、それだけ酷暑ということですが、巷間言われている地球温暖化が進んでいることを実感しています。

 

僕の記憶では地球温暖化がマスコミなどで報じられるようになったのは50年くらい前だったと思います。ですが、当時はそれほど信用していたわけではありません。理由は自分自身が実感したこともありませんでしたし、地球温暖化を否定する記事などを目にすることもあったからです。

 

例えば、地球温暖化を最も象徴する事象として、北極の氷河の山が崩れる映像がありました。初めて見たときあの映像はとても衝撃的でしたが、その後その映像の信ぴょう性に疑問を呈する記事を読んだこともありました。科学に疎い素人の僕としてはどちらを信頼していいのかわからないのが実際のところです。そうした状況の中、自分の周りでは直接的に温暖化を感じることもありませんでしたので、どちらともいえない気持ちでずっと時を過ごしてきました。

 

ところが、今年の夏はこれまでとは違っていました。なにしろ例年ですと、8月15日で終わっている僕の夏が9月17日現在でまだ続いているのです。半信半疑だった僕が地球温暖化を実感する事態になっています。やっぱり、地球温暖化って本当なのかもしれません、って気持ちになっています。

 

そんな僕が先週印象に残っているニュースはなんと言っても「阪神タイガースの優勝」です。特段阪神ファンでもない僕ですが、それでも18年ぶりと聞きますと、やはり一緒に喜びたくなります。

 

先週までですと「阪神タイガースの『あれ』」としか表現できませんでしたが、岡田監督の許しも出ましたので「優勝」と書くことができます。それにしても、どの新聞も「あれ」で通してきたのですから偉いものです。でも、それって本当は近年極悪視されている「忖度」じゃないのかしら、って思う気持ちもあります。

 

古より日本には美徳として「気配り」とか「忖度」といった相手を気遣う習わしがありました。ですが、いつの間にかそれらはマイナスのイメージに変わってしまいました。僕が若い頃は、欧米人は「yes no」をはっきり言うのに対して、日本人は「曖昧にする」などと、どちらかと言いますと批判的な意味で言われてはいましたが、それでもまだどこかしら「そうは言っても日本人のいいところ」という思いはあったように思います。

 

それが完璧に悪い意味に変転したのは、あの森友学園の私有地払い下げ事件での佐川元財務省理財局長の証言です。当時の安倍首相をかばうために事実に反する証言をしたことが「忖度」として社会に広まったからです。「忖度=悪」と決定づけられました。

 

実は、先週は森友学園事件関連の判決もありました。あまり大きく報じられなかったのはそれこそ「忖度」かもしれませんが、公文書改ざんを苦に命を絶った夫の無念を晴らすために財務省と近畿財務局と戦っている赤木雅子さんの裁判です。詳しくは
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d4f085da1f43c86bae10107fb9390efe0077eb66
をお読みいただくとして、森友学園事件を見ていて思うのは組織で働いている人の「善悪の基準」についてです。亡くなった赤木俊夫さんは「社会の論理」を基準としたことで苦しんでいましたが、佐川さんは「組織の論理」を基準にして出世しました。「組織の論理」に従うのなら「忖度」するのは当然です。

 

阪神の優勝は18年ぶりでしたが、甲子園では107年ぶりの優勝もありました。慶應義塾高校夏の甲子園での優勝です。慶應義塾高校の優勝は「107年ぶり」ということも注目されましたが、あと一つ注目されたことがあります。それは森林貴彦監督の指導法です。長髪など外見的なこともそうですが、選手たちの自主性を重んじる指導法はそれまでの高校野球とは全く異なっていました。

 

それまでの高校野球と言いますと、頂点に監督という絶対的な存在がいて、その下に完璧に従う選手というピラミッド型の構造が一般的でした。しかし、森林監督は練習方法も選手たちと相談しながら決めているそうです。そもそも森林監督の指導法は「野球がうまければ人生OKではない」という発想に基づいています。

 

部活動は「組織」です。ですが、森林監督は「組織」を基準にするのではなく、選手それぞれの考えを基準にして判断することを重んじています。高校生にさえ自主性を重んじる指導法を実践している監督がいるにもかかわらず、大学で「組織の論理」で部活動が運営されている例がたくさんあります。年齢的には大学生のほうが大人に近いはずですが、それでも自主性を重んじていない部活動には疑問を感じざるを得ません。

 

数ヶ月ほど前、日大アメリカンフットボール部の学生が大麻所持で逮捕されましたが、同クラブは数年前にも違反タックル問題で大きな批判を浴びました。「社会の論理」に照らしますと絶対に行ってはいけない違反タックルですが、それを犯してしまったのはコーチ・監督からの指示は絶対という「組織の論理」でした。

 

スポーツ界を見渡しますと、「組織の論理」がはびこっている光景を数多く見ることができます。幾つか例を挙げますと、日本水泳連盟における選手軽視の姿勢、日本バドミントン協会での横領・隠ぺい、バレーボール協会でも不祥事がありました。こうした事件・不祥事が起きる根本にあるのは「組織の論理」がまかり通っている状況です。

 

今、バレーボールでは面白い大会が行われています。元バレーボール日本女子代表益子直美さんが設立した大会ですが、大会名を「監督が怒ってはいけない大会」というそうです。僕も高校時代に厳しい練習のクラブ活動に入っていましたが、先生は手を出さないのはもちろんですが、叱咤激励をすることはあっても決して怒鳴ったり怒ったりはしない先生でした。厳しい練習でも、僕が最後まで辞めずにできたのは「怒らない」先生だったことに尽きます。

 

実際、大会などで見かける強豪チームでは監督が大声で怒鳴る光景も、ときにはビンタをする監督を見ることもありました。チームメイトとは「あんな学校、いやだよな」とよく話していたものです。益子さんがこの大会を設立したのも、怒る指導法では子供たちが楽しくバレーボールをできないと思ったからだそうです。益子さん自身の体験があったことがこの大会の設立理由のようですが、怒る監督のチームでは間違いなく「組織の論理」が横行しているはずです。

 

「組織の論理」がまかり通っている社会の最もわかりやすい例が独裁国家です。国民個人個人の考えが社会に反映しない社会で幸せな暮らしを送れるはずがありません。しかし、人は時として、必死になるがゆえに「組織の論理」に染まっていることに気づかないことがあります。ものごとに一生懸命に取り組むことは尊いことですが、時々は立ち止まって考える時間を持つことも必要です。

 

じゃ、また。

<謝罪会見>

先週の大きなニュースとなりますと、やはり「ジャニーズの会見」でしょうか。夜のニュース番組でも大きく時間を割いていました。実際の会見時間は4時間以上ということのようですが、ニュースなどで報じられるのはその中の一部分だけでした。時間に制約がありますので当然ですが、その「切り取り方」で会見時における発言の印象が大きく変わってきてしまうのが気になるところです。ある意味、その「切り取り方」がそのニュース番組のジャニーズ事件に対する捉え方・考え方を表しているともいえそうです。

 

もちろん僕は会見すべてを見ているわけはありませんが、会見模様を伝える番組はニュース番組、情報番組などいくつか見ました。ご存じの方も多いでしょうが、出席者は東山新社長、ジュリー前社長、ジュニア組織の井ノ原新社長、そして弁護士の4人でした。この会見についてはいろいろな専門家の方々が解説していましたが、誰も触れていないことで僕が気になったことが一つありました。

 

それは4人が壇上に登場してきてテーブルの前に立ち一礼をした場面です。この会見は被害者の方々に対して謝罪の姿勢を見せる意味合いもあるはずですので、この一礼には「お詫び」の気持ちが込められているはずです。そして、一般的には日本人がお詫びの意味を込めて一礼をする際、通常は両手を身体の前で重ねて前傾姿勢を取り頭を垂れます。その姿勢が一般的な「お詫び」の姿勢で、前傾姿勢は深ければ深いほど「お詫び」の気持ちが強いことを表しています。

 

テーブルの前に立ち止まった4人のうち3人は両手を身体の前に重ね、前傾姿勢を取っていました。しかし、一人だけ両手をうしろで重ね前傾姿勢をとっていた人がいました。井ノ原新社長です。両手をうしろで重ねた前傾姿勢は「お詫び」ではなく、「あいさつ」です。僕は井ノ原新社長のこの前傾姿勢をニュース番組で見て「んん?」と思ったのです。

 

繰り返しますが、「切り取り方」で印象はかなり変わってきます。それを承知で書きますが、記者の質問に答える井ノ原社長の言葉遣いに、東山社長やジュリー前社長とは少しばかり異なったニュアンスを感じました。簡単に言ってしまいますと、それは「お詫び」の気持ちが薄いということです。

 

例えば、記者の質問に答えていた中で「これは自分たちだけではなく、マスコミの方々と一緒に考えていくべきこと」という言葉がありました。もし、「自分たちの非」を強く認識しているなら出てこない発言です。なぜなら「マスコミにも責任がありますよ」と暗に責任転嫁ともとれる発言だからです。もう少し強い言い方をする「責任逃れ」と映ります。本当に「お詫び」の意志があるなら出てこない言葉です。

 

また、記者の質問に答える際にその記者の名前を言ってから発言する場面もありました。そこから想像できるのは井ノ原社長がその記者と懇意とは言わなくとも、それなりに親しい関係であることです。そうした光景を穿ってみますと、「出来レース」という連想さえ感じさせました。

 

会見とは違いますが、株式を上場している企業は株主総会という年に一度株主に業績などを説明する場があります。そうしたときに経営者側は、経営のやり方に異論や批判的な意見を持っている株主から責められるのを避けるために、意図的に株主が座る席の最前列のほうを身内で固める手法をとっていることがありました。「ありました」と過去形にしましたのは、かつてはそうした株主総会が多かったからですが、そうした状況が「総会屋」という反社会的勢力の増強に手を貸してもいた部分もありました。

 

しかし、今は法律で「総会屋」は違法になっていますが、総会屋の全盛期は大手企業でさえ総会屋に対して便宜を図っていたほどです。僕が一番記憶に残っているのは第一勧業という大手銀行の頭取がそれを苦に自殺をした事件です。一度総会屋に入り込まれてしまいますと手を切るのは至難の業のようでした。

 

話を戻しますと、井ノ原社長が質問した記者の名前をわざわざ口にしてから質問に答えるようすを見ていて、僕は株主総会を思い出しました。それが「出来レース」を連想させた理由です。真相はわかりませんが、「お詫び」の会見であるはずの場で、記者の質問に対して「マスコミも同罪、一緒に考えていきましょう」と論点をずらした方向にもっていったところに、僕は「違和感」を持ちました。仮に、もっと批判的な記者がいたならそうした返答に反発し、さらに追及を強めていたのではないでしょうか。そうした場面が一切なかったところが、この会見自体を僕に「出来レース」と思わせた要因です。

 

そういう疑問点もあるのですが、4時間以上という長丁場をこなしたのは、やはり立派です。この会見に対する覚悟と誠実さを感じさせました。先ほど株主総会の話を書きましたが、経営側が総会屋を活用するのは、株主総会をできるだけ短時間で終わらせることが目的です。それに比べますと今回の会見は格段に良心的です。

 

ジュリー前社長について私見を述べますと、実はジュリー氏が会見に出てくるまで、どちらかと言いますとあまりよい印象は持っていませんでした。ビデオでの謝罪のみで表に出てくることがなかったからですが、会見でのジュリー氏は事件に対して真摯に向き合う姿勢が感じられて好感でした。

 

ジャニーズの事件と同時期にマスコミで大きく報じられたのがビッグモーター事件です。この事件は収束の気配が見えるどころか、さらに大きな事件に発展しそうな状況になっています。そのビッグモーターの創業者でもあった社長は事件発覚後、早々と表舞台から去っています。一応「責任をとる」という名目ですが、僕からしますと単に追及の手から逃れる目的のように映り、「卑怯」という言葉が思い浮かびました。

 

それに比べますと、社長の座を退きながらも「代表取締役」としてとどまっているジュリー氏は立派です。「代表取締役」は法的に責任を負うことですので事件に対する覚悟をうかがうことができます。ビッグモーターの創業者のように「責任をとる」という体で代表取締役から退くこともできたはずですが、逃げも隠れもせず「補償を終えるまで」と語っている姿はとても潔いものを感じました。

 

余談ですが、4時間という長時間だったからだと思うのですが、後半に映し出されるジュリー氏の表情を見ていますと、とても失礼な表現で申し訳ないのですが「普通のおばさん」のように思いました。本当にそこらへんにいる「普通のおばさんの表情」に見えたのです。非難とか悪口という意味ではなく、純粋に「普通のおばさん」のような表情になっていたのが印象的でした。

 

まだ事件がここまで大きくなる前、ある雑誌にメリー喜多川さんのインタビューが記載されたことがあります。その記事には「SMAPが解散するときの様子」も書かれていたのですが、当時「SMAPの解散」には「SMAP」のマネージャーとジュリー氏の確執が関係していると噂されていました。そのインタビュー記事にはそうしたときのことも書かれていたのですが、そこにはメリー氏の実の娘であるジュリー氏とマネージャーとの対立が実際にあったことが書いてありました。

 

当然、メリー氏は実の娘であるジュリー氏の肩を持つ発言をしていましたが、読む側としては反対にジュリー氏に対して「親の七光り」というあまりよい印象を持たないものです。ですので、先入観としてジュリー氏に対して「わるもの観」があったのですが、会見を見る限りそこまで「わるもの」ではないように思いました。しかし、今後の対応によっては僕の評価も変わるかもしれませんが、被害者にきちんとしっかり対応する姿勢がみられたのがなによりも収穫です。

 

東山社長は会見で補償について「法の枠を超えて」と発言していましたが、現実的にはかなり難しいものがあります。過去の事例を見る限り、法律の枠内における補償でさえ決着していない例がたくさんあります。そうした中で「法の枠を超えて」と述べてしまったことはさらに解決を難しくするのではないでしょうか。

 

どちらにしましても、解決までには長い年月がかかることが予想されます。被害者の方々がいくらかでも納得できる方向に進んでいくことを願っています。

 

じゃ、また。

<フロント企業>

フロント企業」を辞書で調べますと「暴力団が設立し、経営に関与している企業。あるいは、暴力団と親交のある者が経営し、暴力団に資金提供を行うなどして組織の維持・運営に積極的に協力・関与する企業」と書いてあります。簡単に言ってしまいますと、「暴力団の顔を隠した暴力団企業」ということで、つまりは暴力団と変わりないことになります。

ですので、「フロント企業」の目的は「暴力団であることを隠すこと」です。そうすることで警察の監視の目を逃れながらを企業の利益を暴力団に提供することができます。「フロント企業」の実質的なオーナーは暴力団組長もしくは幹部ですが、表向きの経営者は「フロント企業」の代表者ですので、なにか問題が起きても責任が組長などに及ぶことはありません。暴力団にとって「フロント企業システム」の一番のメリットは、真のオーナーである組長もしくは幹部に責任が及ばないことです。

先週、福岡地裁暴力団の組長に対して死刑判決が下されました。港湾事業の利権に絡む殺人事件の裁判でしたが、この裁判の焦点は「組員が犯した犯罪で暴力団組長の責任を問えるか」でした。判決は「組長の責任を認めた」ことになりますが、こうした判決がなければいつまで経っても「トカゲの尻尾切り」で終わってしまい、真の意味での解決はできないままになってしまいます。

フロント企業システム」と似たような形態として「院政」があります。「院政」を辞書で調べますと「現職を引退した人が、なお実権を握っていること」と書いてあります。表向きのトップを思いのままに動かし、しかも責任は追及されないのですから、これほど気楽で居心地がいい立場はありません。

しかし、「責任を負わなくてよい」立場の人が公平な社会を実現するための正しい決断をできるとは思えません。「責任を負わなくてよい」立場は、仮に失敗したときに実害や損失が自らに及ばないからです。「責任を負わない」を言いかえるな「実害が及ばない」です。自分自身に損失や損害が及ばないのですから、結果を案ずる必要もありません。

僕は自サイトで「フランチャイズシステム(以下FCシステム)」について持論を展開していますが、FCシステムの一番の問題点、俗な言い方をするなら「ズルい」点は本部がリスクを負わないで済むシステムになっていることです。FCチェーンの中でもコンビニ業界は本部がある程度リスクをとっていますが、店舗運営に従事している加盟店主に対してかなり不利な条件を押しつけています。

本質的なことを言いますと、コンビニが本当に儲かる業界であるなら、本部はFCシステムという形態をとらずに直営で店舗を展開しています。コンビニ業界が発展しているのは店舗を運営しているからではなく、加盟店から加盟金やロイヤリティを召しあげているからです。仮に、すべてのコンビニ店舗が直営であったなら、従事する人に関する人件費のほかその他もろもろの経費が発生し、現在ほどの発展はなかったでしょう。

最近はFCの問題点が少しずつ報じられるようになっていますが、似たような収益構造として「指南システム」が登場してきています。「指南システム」は僕の造語ですが、飲食店の開業方法を教えることで報酬を得るシステムです。例えば、ラーメン店やパン屋さんの開業方法や製造技術、運営ノウハウなどを教える見返りに報酬を受け取るシステムです。つまり、「指南すること」で報酬を得ることになりますので、運営に関するリスクはありません。それに対して開業する人たちは数百万円~数千万円という大きなリスクを負うことになります。

ラーメン店やパン屋さんなど飲食店は一般の人が憧れる商売の一つですが、実は開業するのはさほど難しくはありません。お金さえ準備できるなら、もしくは借金をする資格があるのなら誰でも開業できます。大切なのは「継続する」ことです。しかし、言うまでもなく「継続できる」人はほんのわずかです。

これまで紹介してきました「FCシステム」や「指南システム」は、実際に前面に出て現場で活動するよりも、うしろに控えて前面で活動している人たちに指導や指南をするほうが利益を得るのが容易であることを示しています。これと同じことが政治の世界にも当てはまる場合があります。

1980年代マスコミから風見鶏と揶揄されながらも首相にまで上りつめたのが中曾根康弘氏でした。中曽根氏は弱小派閥でありながらも当時の最大派閥田中派の支持をとりつけ首相にまでなりました。ですので、いろいろな場面で田中派の意向をうかがいながら政権を運営していたのですが、中曽根氏は田中派の意向も尊重しながら自らの政治家としての信念も遂行していたように思います。

中曽根氏とは対照的に、派閥の意向など全くお構いなく自らの信念を曲げずに首相に就いたのが小泉純一郎氏です。小泉氏は「自民党をぶっ壊す」をキャッチフレーズに選挙で勝利を収めました。それまでも、そしてこれからも派閥の意向を無視して総裁選に臨む人は出てこないのではないでしょうか。

民主主義における選挙システムは支持を集めた人や組織が勝利するシステムです。ですが、支持を得たいがために自らの信念を変えてしまっては本来の民主主義の意義を失わせることになります。民主主義における選挙は自らの考えを発表して、投票者に訴えるのが本来のあり方です。支持を得るのではなく投票者に自らの主義主張を訴えるのが選挙の目的です。

もし「投票者に訴える」のではなく「支持を集める」のが目的になってしまいますと、それこそ支持者たちの「フロント企業」ならぬ「フロント政治家」になってしまいます。現在マスコミでは、自民党の総裁選に立候補をする方々が注目されていますが、どれだけ派閥の支持が集められるかが焦点と伝えられています。

現在、最も大きな派閥は細田派ですが、実質的には安倍派といって差し支えないでしょう。その安倍派を率いる安倍氏の「森友学園問題」について、候補者の方々が「再調査しない」と表明しています。しかし、国民の多くが「森友学園問題」について疑問を感じている中で安倍派の意向を忖度したような対応は「フロント政治家」になる危惧を感じてしまいます。

「フロント政治家」になり下がってしまった政治家に清く正しい政治ができるはずがありません。まだ告示もされていませんが、是非とも自らが責任を負う覚悟を持ち、そして派閥の意向などにとらわれない政治家が立候補してくださることを願っています。

…、自民党支持者ではないけれど。

じゃ、また。

<正しい試合>

開催直前までいろいろな問題が噴出していたオリンピックも、中盤を過ぎ佳境に入ってきています。開催にあまり賛成でなかった僕もやはり結果は気になっています。賛否両論がある中、賛成派からは「いざ始まれば、反対していた人たちも五輪開催を喜ぶ」という手のひら返しを予想する声がありましたが、その術中にはまっている感は免れないように思っています。

 

特に、マスコミに対しては「手のひら返しが強くなる」という指摘がありましたが、実際テレビ番組はそのような編成になっています。なにしろ僕がいつも見ている「家族に乾杯!」や「サラメシ」、「プレバト」、「ブラタモリ」などがこぞって休止になっています。

 

スポーツ大好き人間の僕としましては、競技自体にはやはり関心がありますので、いつも見ていた番組の代わりにオリンピックが放映されることにそれほど抵抗はありません。ですが、競技や結果以外の報道に対しては反発的な感情が出てきます。

 

例えば、出場する競技とは直接関係のない映像などには強い辟易感があります。具体的にいいますと、選手がいつも通っていた飲食店とか競技を始めたきっかけとなった人物などの紹介です。無理やり感動話に作り上げようとする意図が感じられて不快にさえなります。

 

テレビ局はこうした感動話やストーリー作りが視聴者を惹きつけると思っているようですが、時代遅れも甚だしいです。テレビの人気が凋落傾向にある原因に制作陣の方々が気がついていないことの証です。

 

日本が一応、それなりに盛り上がっているのはやはりメダルラッシュが続いているからです。もし日本人の活躍が少なかったなら興味もそがれるというものです。しかし、競技の初っ端となった柔道が快進撃を続けましたので、国民の関心が高まったように思います。しかし、最近の僕は「公平な競争」について考え込んでいます。

 

以前、デッさんの言葉で「オリンピック 昔肉体競技 今科学技術競技」と書きましたが、科学技術が発達している環境で練習している選手と科学技術が遅れている環境で練習して選手とでは実力に差がついてくるのは当然です。

 

数年前、マラソン界で厚底シューズが世界を席巻しましたが、機能が高まったシューズのほうが好記録を出すのは当然です。さらにその前には水泳競技において「高速水着」が問題になったことがあります。こちらは機能の高さゆえに使用に制限が設けられましたが、競技の結果が選手の努力以外によって決まることに対しては納得できないものがあります。

 

以前コラムで書いたことがあるのですが、「巨人の星」の左門豊作のエピソードは競争の意義を問いかけるものでした。簡単に説明しますと、星飛雄馬の魔球を打ち崩すためには通常の練習以上の肉体的鍛錬が必要なのですが、その鍛錬を実行するにはレギュラーの立場を放棄する必要がありました。レギュラーを手放すということは即ち報酬が低くなることを意味します。

 

財閥の御曹司である花形満は、経済的に心配などありませんのでその肉体的鍛錬を行うことができました。それに対して、左門は幼い弟や妹を養うために報酬が低くなることを受け入れてまで練習をすることはできませんでした。その環境の違いに左門豊作が涙を流しながら兄弟姉妹を抱きしめている場面は忘れることができません。

 

同じことがオリンピックでも起こっているように思います。経済的に豊かな国の選手と発展途上の国では練習方法が違い、練習環境も違い、さらに言うなら競技人口が違います。競技人口が違うということは競技全体のレベルが低いことを意味します。このように選手を取り巻く環境が違う状況で、オリンピックという土俵でハンデもなく戦うのです。果たしてこれが「公平な競争」といえるのでしょうか。

 

柔道は体重別で競技が行われます。理由は体重の違いが勝利に影響を与えるからです。ボクシングやレスリングでも同様ですが、できるだけ公平な競争をするために必要な体重別制度です。僕は同じことが選手を取り巻く環境でも行われるべきだと思っています。先進国では効率的な練習方法が確立され、サポートする環境も指導者も含めて整っています。それに対して発展途上国では脆弱な環境で練習が行われています。勝負はこの段階で決まっています。

 

最近は日本でもラグビーの人気が上がってきていますが、そのきっかけとなったのは一昨年のラグビーワールドカップの日本開催でした。「にわかファン」という言葉まで生まれましたが、この言葉の示すとおり、それまでファンはあまりいませんでした。

 

ラグビー人気が高まるその一つ前のきっかけとして2015年のワールドカップがあります。弱小国日本が優勝候補の一角と言われていた南アフリカに勝利したのです。世界にセンセーショナルに報じられるほど画期的な勝利だったのですが、その勝利に導いたのがエディー・ジョーンズ氏という世界的に有名なヘッドコーチでした。

 

ジョーンズ氏はとにかく練習が厳しいことで有名でしたが、単に厳しいだけではなく、人生をかけるほど練習に集中することを選手たちに求めていました。それくらい練習しないと世界とは戦えないと指導していました。単純に言いますと、「朝から晩まで、起きてから寝るまでラグビーにかけろ」ということです。

 

ここで僕の疑問がふつふつと湧きあがってきます。「朝から晩まで、起きてから寝るまで」ラグビーに費やすということはそのほかのことは全くするな、ということと同じです。左門豊作のように収入の問題は、日本という経済大国では心配いらないかもしれません。しかし、プライベートの時間が全くとれなくなることは、果たして人間として幸せなことでしょうか。

 

普通の人にとっては、友だちと遊んだり映画を観たり恋人と時間を過ごしたり、家族がいたなら妻や子供たちと一緒に過ごしたりすることが生きる意味です。それらをすべて投げうってラグビーにだけ集中することが果たして幸せとなるのでしょうか。そんな禁欲生活を過ごして得た勝利にいったいどんな意味があるのでしょう。

 

アスリートの方々の中には「見ている人に感動を与えたい」とインタビューに答えることがありますが、練習環境や状況が違う選手同士が戦うのは決してフェアな試合とはなりません。そのような試合で戦って得た勝利に感動する人はいないでしょう。戦時下で練習もままならない環境から出場した選手と、恵まれた環境で練習した選手とでは最初から勝負はついています。もしかしたら、練習がままならない環境の選手のほうが才能が優れている可能性もあります。

 

そもそもの話をしますと、かつてオリンピックはアマチュアの人しか参加できない大会でした。それが時代の変化により、プロも参加できるようになったのですが、プロとアマチュアでは練習環境が全く違います。中にはアマチュアと言いながら実質的にはプロと同じ環境の選手もいます。それはともかくプロとアマチュアでは練習の時間や質が全く違うのですから自ずと技術レベルも違ってきます。そうした選手同士が戦うことは、僕からしますとフェアな試合とは思えません。

 

繰り返しになりますが、練習時間に限った場合でも、1日3時間しか練習できない環境の人と1日12時間練習できる環境の人とでは実力に差がついて当然です。これは練習の質についても当てはまります。このようなことが積み重なるならその差はとてつもなく大きなものとなります。もしかしたら、練習環境が劣悪な選手の中には、恵まれた練習環境にいる選手よりも優れた才能の持ち主がいる可能性もあります。仮にそうであったなら、その選手のほうが多くの人から称賛の声を贈られるべき資格があることになります。

 

そうしたことを考えるとき、真の意味での勝利を決める際は、練習時間も練習環境もそして練習の質までも同一にして試合をすることが正しい試合のやり方のように思います。

 

「公平」って、難しい。

 

じゃ、また。

天才!

「知の巨人」と言われていた立花隆さんの訃報が伝えられましたが、実際は4月に亡くなられていたそうです。立花さんをメジャーにしたのは「田中角栄研究 その金脈と人脈」という週刊誌記事ですが、当時僕は高校生でもちろん詳しくは知りませんでした。というか、まだ政治にほとんど関心など持っていなかった時期です。

田中角栄研究 その金脈と人脈」を簡単に説明しますと、当時の総理大臣だった田中氏の資金源を暴いて違法性を報じた記事です。田中総理は「お金を配って総理大臣に就任した」と噂されていましたが、立花さんは「そのお金をどのようにして工面したか」を徹底的に調べていきました。

結局、この記事がきっかけとなり田中総理はロッキード事件で退陣し、逮捕されることとなります。一国の総理大臣を逮捕にまで追いつめたのですから、この記事の偉大さがわかるというものです。個人的にも、政治にほとんど関心を持っていなかった僕に政治に興味を持たせるきっかけになった記事でした。

ロッキード事件は、単に総理大臣が逮捕されるという政治的な事件というだけではなく、大衆の好奇心を刺激するような幾つかのドラマが展開される事件でもありました。そうしたことも僕に政治について関心を持たせた要因ですが、それらの中でも特に週刊誌やテレビが飛びつき、大衆心理を鼓舞させたのが「ハチの一刺し」というフレーズでした。

「ハチの一刺し」とは、「(ミツバチは、一度刺したら死んでしまうことから)自分の命をかけて相手に致命傷となる一撃を与えること」という意味です。ロッキード事件の裁判の中で発せられた田中首相の秘書の妻・榎本三恵子さんという方の言葉でした。この榎本三恵子さんの美貌と経歴なども相まってマスコミが注目するところとなりました。この話を続けますと、かなり長くなりますので端折りますが、要は権力を持たない者が権力者に対して挑む構図が大衆の琴線に触れたドラマが展開されました。

政治に関心などなかった僕に政治への興味を抱かせてくれるきっかけを作った記事ですが、この記事でブレイクした立花さんに対してはやっかみなどもあったようです。それを端的に表している言葉が「あの記事の内容は、政治記者ならすでにみんな知っていた」というものです。つまり、「それほど価値のある記事ではない」ということを言いたかったようですが、誠実なジャーナリストの方々は「それなら、それを記事にしかなったほうが大きな問題だ」と指摘していました。

僕が立花さんを直接見るようになったのは、筑紫哲也さんがメインキャスターを務めていたニュース番組でした。その番組内でなにか大きなニュースがあるときにゲスト解説者として出演していました。出演していた理由は、筑紫さんとジャーナリストという立場で親しかったからですが、当時、僕が思っていたのは単に「田中総理の資金源を追及した人」ということだけでした。

正直に言いますと、話し方に特徴があり、話の内容がスムーズに聞き取れない印象を持っていました。ですので、「この人、本当に頭がいいのかなぁ」などと、今思うと大変失礼な感想を持っていたのも事実です。それくらい話し方に落ち着きがなく、聞き取りにくい口調でした。

しかも、ニュース番組では「宇宙のこと」とか「死後の世界」といった、ちょっとスピリチャル的なことについて説明などもしていました。僕が疑いたくなるのもわかっていただけると思います。僕からしますと、「ちょっとアブナイ宗教関係の人」ともとれそうな雰囲気を漂わせている人でした。

そんな僕の思い込みを一変させたのが、立花さんの訃報が報じられたあとのいろいろな記事でした。僕は「文芸春秋digital」を購読しているのですが、その中で多くの著名人が立花氏の人となりを綴っています。例えば、ノンフィクション作家の柳田邦男さん、同じく後藤正治さん、評論家の佐藤優さん、スタジオジブリ鈴木敏夫さんなど各界の錚々たるメンバーが立花さんの天才ぶりについて思い出を語っています。

よく言われることですが、実力が5の人に10の実力を持っている人の評価はできません。立花さんの「天才ぶり」を認めているのは各界の実力者の方々です。全員が10の実力を持っている人たちです。そうした人たちが立花さんの才能を称賛していました。立花さんは、やはり天才です。

それらの記事の中でも、平尾隆弘さんという文藝春秋の社長まで務上げた方の記事が最も僕に刺さりました。その記事の中で印象的だったのが、立花さんがノーベル医学・生理学賞 受賞者の利根川進氏にインタビューをしたときの逸話です。当初、利根川氏は週刊誌記者の取材に対して「説明をしても、どうせ、表面的なことしかわからない」と見下した対応をとっていたそうです。

しかし、インタビューを進めるうちに立花さんが専門的で的を得た質問をすることで心を開くようになったそうです。10の実力を持っている人は10の実力を持っている人を見抜けるのです。平尾さんは、そうやってレベルの高い本ができたと書いています。

また、立花さんの記憶力の物凄さを物語るエピソードを紹介しています。引用しますと

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「3階の左奥に『〇〇』という本があって、〇〇頁あたりの真ん中に〇〇という記述がある。傍線を引いてあるから、見つけて持ってきて」と頼まれた。
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行ってみると本当にその本があったそうですが、「立花さんは、傍線を引いたところは全部覚えてしまうという伝説がありました」という元同僚のエピソードも添えています。

この文章を読んでいてあと一人の天才を思い出しました。以前、漫画家の手塚治虫さんについてほぼ同じようなエピソードを書いている記事を読んだことがあります。手塚さんの記憶力も有名でしたが、天才と凡才の違いはここにあるのかもしれません。天才には凡才がどんなに頑張っても届かない領域というものがあるのでしょう。

このように書きますと、天才はその才能だけで天才になっていると思われそうですが、立花さんにも手塚さんにも共通していることがあります。それは人並外れた努力をしていることです。立花さんが「知の巨人」といわれる所以はその読書量にあります。時間の許す限り読書に充てています。そして、時間の許す限り執筆しています。同じように、手塚さんも時間の許す限り資料にあたり、漫画を描いています。おそらく普通の人の何倍も努力しているのでしょう。

天才と凡才の違いは、ここにありそうです。けた外れの才能と、人並外れた努力。この二つが揃って初めて天才は誕生します。

そう、大谷翔平選手は天才だ!

そして、僕は間接的に天才を見抜いたのでした。(^_-)-☆

じゃ、また。